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 日本人作曲オペラの隆盛を願って

【 2018年2月記:日本オペラ協会公演「夕鶴」プログラムに寄稿を依頼されて 】

 私がそもそも、これ程、オペラに取り憑かれたのには父の影響が大きかったと思います。一高、帝大、大蔵省とエリートコースを歩んだ父は大の歌好きオペラ好きで、学生時代からOB時代まで合唱グループでバス・パートを務め、家でも機嫌のいい時、よく歌い、子供にも教えて楽しんでいました。その父が高等文官試験で好成績を上げ大蔵省に入り、25歳で仙台税務署長になった時、偶然、宴席で一緒になった藤原義江さんと、二人で声を張り上げてイタリア民謡やオペラのアリアを歌ったもんだ、とよく聞かされました。

 そのような父の許で育ち、私も学生時代から次第に歌好き、オペラ好きになって、日比谷公会堂や旧帝国劇場に藤原歌劇団や原信子オペラ研究所、長門美保歌劇団の公演を見に通うようになりました。その挙げ句、音楽映画制作を夢見て日活映画会社にも入ったのですが、残念ながら、数年にしてテレビに押され、日活は経営不振に陥り、私はNHKへ転社しました。そして、運命的なNHKイタリア歌劇公演の裏方をやるチャンスに恵まれ、それが音楽部オペラ番組担当ディレクター三十年へと繋がったのです。

 NHKはイタリア歌劇公演や海外の一流歌劇場の公演をどんどん中継放送し、私は藤原歌劇団や二期会以外の日本の様々なオペラ団体のオペラを放送するのにも関わり、沢山のオペラ公演を見てまわりました。NHKはまた日本人作曲家にオペラの作曲を委嘱し、放送することにも積極的で、放送初演され、他の団体で再演されたオペラも沢山ありますが、特に1960年、NHKが放送開始35周年記念として開始した「NHK歌劇の夕べ」で、毎年、日本人作曲家のオペラ作品を上演、第6回以後「NHK創作歌劇の夕べ」と名を改め第10回まで続けました。上演作品は小倉朗作曲「寝太」、三善晃作曲「オンディーヌ」、諸井誠、入野義朗、清水脩の三人で作曲「三つのむかしこ」、林光作曲「絵姿女房」、石井歓作曲「役の行者」、別宮貞雄作曲「有間皇子」、間宮芳生作曲「ニホンザル・スキトオリメ」、石桁真礼生作曲「魚服記」、清水脩作曲「俊寛」他です。

 それに、三年毎に行われるテレビ・スタジオ・オペラの国際コンクール、ザルツブルク・テレビ・オペラ賞。これは、そのために自国語で新たにオペラを作り出品し、優劣を競うもので、受賞すれば、ディレクターとして大変名誉なことで、音楽部ばかりか、NHKの中で自分の存在を印象づけることでもあったので、若いディレクター達は懸命に素材探しから始め、脚本家、作曲者を選んで委嘱し、スタジオ収録の技法を考え、腕を競いました。幸い、私は落語オペラ「死神」(今村昌平台本、池辺晋一郎作曲)で、二位に相当する優秀賞を獲得、その三年後の文楽人形オペラ「鳴神」(間宮芳生作曲)でグランプリを得ることが出来ました。このような経験を経て、私は自国のオペラを上演する強味、歌手であれば、自国語で歌い演じる、本物の持つ力を強く感じるようになったのです。

 その結果、私がNHKを定年退職後、自分のオペラ・プロダクションを創設、自主公演を行うようになった時、積極的に日本人作曲家の作品を取り上げることに繋がったのです。

 NHKに在籍したことも幸いして、私は実に沢山の日本人作曲家の作品を見てきましたが、その中で抜群に上演回数が多く、私が見る機会が最も多かったのは、何と言っても木下順二さん台本、團伊玖磨さん作曲の「夕鶴」です。それは言うまでもなく、作品の素晴らしさであり、海外でも上演され、国境を越えて多くの観客に感動を与えたのは言葉の壁を乗り越える音楽による説得力の強さだと思います。そのことを思えば思うほど、このような作品がもっともっと沢山生み出され、世界中の人々と感動を共有することが出来たらば、という思いが、私を突き動かしたのです。このような思いの方は、私だけでなく過去現在を問わず、沢山おられますし、団体もあります。山田浩子さんの日本楽劇協会、佐藤美子さんの創作オペラ協会、日本オペラ振興会と連携した大賀寛さんの日本オペラ協会等々、私のような零細な個人の力とは格段の資金力、組織力で実績を上げておられますが、その中で、私も微力ながら、出来る限りのことをやり続けて行きたいと思っています。

 この「日本のオペラ」という不思議な魅力と共に、私の心を強く惹きつけたのが市民オペラ、或いは地域オペラと言うべきなのでしょうか、オペラ公演を永続的に、専門に組織された団体でなく、或る動機で普段はオペラに関係のない人々が糾合して、一つのオペラ上演に参集参画し、公演が終わったら、それぞれの生活に戻ってしまう、という活動です。
 そのきっかけとなったのは、今から28年前、1990年1月、藤原歌劇団のプリマドンナとして活躍された大谷洌子さんが勲四等宝冠章を受章された祝賀パーティで福永陽一郎さんにお会いしたことでした。 福永さんとはNHK時代、イタリア歌劇公演の副指揮者としてお付き合いいただいて以来、福永さん指揮のオペラ公演中継の時もよくお会いして、親しく世間話などする仲でした。

 「杉さん、どうしてる?」と聞かれ、私は「自分の第二の人生をオペラ演出家として生きて行こうと思い、NHKを定年より少し早めに辞めたんだけど、栗山昌良さん、鈴木敬介さん達のベテランが活躍していて、僕にオペラの演出を頼みに来る人はいないんだ」、と答えました。すると、その翌日、福永さんから電話で、「実は、今、藤沢市民でオペラ「ファウスト」の上演を企画し、練習に入っているのだが、先日、演出の粟國安彦君が突然亡くなったので、誰か代わりにやってくれる人を探しているのだが、引き受けてくれないか」と言うのです。私はびっくり仰天しましたが、二つ返事で、お引き受けしました。

 「ファウスト」と言えば、グノーがドイツの文豪ゲーテの原作を、バレエ・シーンもある四幕ものの所謂グランドオペラに仕立てた大作です。NHKイタリア歌劇公演では第七回、NHKホール・オープニング記念公演で上演され、その時はフランスの名優ジャン・ルイ・バローの原演出に基づき、マダウディアツというイタリアの演出家が演出、ファウストがアルフレード・クラウス、マッダレーナがレナータ・スコット、メフィストフェレスがニコライ・ギャウロフという凄い顔ぶれで、会場が棟続きのNHKホールでもあり、私は中継放送の纏め役でもあったので、連日、ホールの練習に立合い、徹底的に勉強させて貰っていたので、自分に演出のお鉢が回って来るとは夢のようでした。

 粟國君は、初期のNHKイタリア歌劇公演に藤原歌劇団の合唱として出演していて、顔馴染みでしたので、2月10日に行われた彼の音楽葬にも参列しましたが、その日の夜、福永さんから連絡してくれ、と言われていた十時頃に電話したところ、何と、二時間ほど前に、福永さんが亡くなられた、とのこと、私は腰を抜かさんばかりに驚き、大変な衝撃を受けました。演出家が急死し、そして、指揮者までも……と。実は、この頃、福永さんは重い病いに侵され、月に何度か人工透析をしながら、病床にあって、どんなに体力が衰えても常に、「ファウスト」のスコアを離さず、構想を練っておられたそうなのです。

 そもそも、何故、藤沢市が、こんなオペラの大作を?と、不思議に思われるでしょうが、それは当時の藤沢市長の葉山峻さんが福永さんに地元市民の合唱団やオーケストラの指導を依頼し、1973年、藤沢市民会館開館5周年記念に「フィガロの結婚」を上演してからは二、三年毎にオペラを上演、1983年には本邦初演の超大作、ロッシーニの「ウィリアム・テル」が大好評で、更に「アイーダ」「椿姫」と続いていたのです。しかし、肝腎のリーダーを失っては残念ながら、この公演企画は中止と思い、しかし、それにしても、舞台演出家としては経験の浅い私を見込んで下さった福永さんには感謝の思いが深く、沢山の参列者で溢れた葬儀では世話係を務めました。

 ところが、その悲しみの日から十日の後、藤沢市民会館の方から電話がかかり、福永さんの思いを何としても遂げさせよう、と熱心な市民の方々が集まり、「ファウスト」の公演実現を願っているので、是非、力を貸して欲しい、とのことなのです。勿論、私は即、お引き受けしましたが、制作や演出は引き受けられても、音楽面を全面的に見てくれる指揮者、或いは音楽監督が必要と考え、生前、福永さんと昵懇だった畑中良輔さんに音楽監督をお願いし、北村協一さんに指揮者となっていただきました。

 この公演は土曜、日曜と、その一週間後の土曜、日曜と四回公演が行われ、毎回、主役の人達が交替するのは、まだしも、今迄の福永さんへの感謝の思いを込めて、我も我もと合唱のメンバーに加わる人が増え続け、遂に合唱もダブルキャスト、前の土日と次の土日と全員入れ替わることになり、プロと違ってアマチュアの場合は家庭の事情で欠席する人も多く、稽古をする度に配置がごちゃごちゃに変わってしまうので、その人達への演技指導だけでも大変な労力が必要となりました。しかし、合唱の人達は主催者には負担をかけないように自分達の衣装は自分達で工夫して作り、私は、その熱意に感動し、普通、ラストシーンでは天から聞こえて来る声として、合唱は舞台袖で歌われるのを、舞台奥の高い台の上に白衣を着た天使達として立たせ、その天使の許へマルガレーテが両手を広げて静々と登って行く幕切れに変え、大変な拍手喝采を浴びました。幕が下りた途端、市民の方達も皆、嬉し泣きに泣いていました。無報酬どころか、身銭を切って衣装も作り、何ヶ月も家庭の必要とする時間も犠牲にし、持てる限りの力を振り絞って、同じ志の人と力を合わせて公演を成功させる、これこそ、真の文化活動でなくて何だろう。私は言い知れぬ感動に胸打たれ、以後、すっかり市民オペラ、地域オペラに取り憑かれてしまったのです。(※「制作協力オペラ」欄 写真参照

 自国オペラ指向と市民オペラ活動への傾倒が結びつき、それが、鹿児島オペラ協会「カントミ」(鹿児島・奄美大島公演)、松江音楽協会「耳なし芳一」、信濃川流域文化推進事業「みるなの座敷」初演、昭島市制50周年記念事業「いさな」初演、昨年6月のオフィス・アプローズ「夕鶴」公演等に私が尽力する原動力となったのです。

 87歳の今夏、和歌山市民オペラ協会から好評に応えての「末摘花」三回目公演の依頼も是非、成功させたいと思っています。そして、今後も、このような日本の作曲家によるオペラはどんどん作られ上演され、市民に根ざしたオペラ活動も拡がって、多くの人達の想像力をより高め、より心豊かな人生が送れるようになることを心から願っています。

ニュー・オペラ・プロダクション 代表 杉  理 一