オペラ字幕の話 |
初期のオペラ字幕
私がオペラの字幕をテレビ画面で初めて見たのは、昭和31年のNHK招聘によるイタリア歌劇公演の時でした。この時の映像記録を見ると、画面のほぼ中央に10文字2行の不粋な大きな字幕がダブっています。これは当時のテレビが小型で画面が8インチ、10インチしかなく、解像度も悪いので字を大きくしなければならなかったからです。しかも、ブラウン管の縁取りの幅が広く画面が四角でなく楕円形に近かったので、字幕の両端が切られないためには画面下端を嫌ってやや中央寄りにずり揚げた位置、つまり全身が映っている出演者なら下腹部に大きな字がでるという有様だったのです。
字幕の枚数にしても、現在では劇映画と同じように原語の歌詞が歌われている限り常に数秒に1枚の割で出ていますが、当時は1分間に2枚とか、3枚とか思い出したようにぽこっ・・・・ぽこっと出る程度でした。シミオナートが歌う≪フィガロの結婚≫の約2分半の「恋とはどんなものかしら」の現在では20枚にも達する字幕をたった2枚で済ませ、対訳というより大意といった感じでした。それでも当時は内容がよく分かるようになった、とたくさんの視聴者に歓迎されたということです。
私と字幕の付き合い
昭和34年、第2回イタリア歌劇公演の時に、日活映画の宣伝部からNHKの美術部に転職したばかりの私は、幸運にも公演の舞台監督助手を命ぜられ、身近に、デル・モナコ、ゴッビ、タリアビーニ等と付き合う舞台制作の一員となりました。その翌年、音楽部へ移り、以来定年までの28年間、洋楽番組、特にオペラ番組のテレビ・ディレクターとして働き、海外からの一流歌劇場や国内の様々な団体によるオペラ公演の中継放送のほとんどに携わってきました。
初期の頃は字幕の専門家などいなかったので、専ら外部の翻訳家に委嘱し、ディレクターの私は出来上がってきたものをチェックして、本人に手直ししてもらったり、ご了解を得て私が手を入れて仕上げるということをしました。オペラ字幕には普通の翻訳とは全く違って音楽の寸法に合わせなくてはならないという難問の他に、様々な制約があります。クラシック音楽番組はほとんどが教育テレビで放送され学校教材として使われることも多かったので用語用字は文部省の指導に従わねばならず、差別語を含むマスコミ禁止用語の扱いも厳しく、手直しには随分と気を使い時間もかかりました。
私が大々的に手を入れなければ放送できないというような事態もしばしば起きましたし、外注する程の時間的余裕がない時など、短い作品で私の語学力で訳出可能と考えたものは私自身がやるようになりました。その放送されたものが結構、分かり易く読み易いという評判を得、自信も出てきて次第に私自身が手掛けた作品の量も増えました。初めはアリアや歌曲、民謡などの短い作品ばかりでしたが、その内、内容をよく知ったオペラ、馴染みの薄い原語のオペラも、時には下訳だけを専門家に頼んで、文法書を傍らに置き1語1語、根気よく、しらみ潰しに片っ端から辞書を引いて仕上げて行きました。
映像記録も残っていないので、さて、どれが私のオペラ全曲字幕の第1号作品か記憶も定かではありませんが、手元に残っている記録からすると、オペラ放送の字幕はおそらく1986年の藤原歌劇団公演で、渡辺葉子、ガラヴェンタ主演の≪ラ・ボエーム≫が最初だったと思います。ビデオ・ディスクでは、その前年にビクターから発売されたショルティ指揮、グルベローバ、ファスペンダー主演の≪ヘンゼルとグレーテル≫が最初です。公演字幕の第1号は1988年のメトロポリタン歌劇場来日公演≪ホフマン物語≫でした。NHKを退職した後、1990年にニュー・オペラ・プロダクションという会社を作り、そこでもオペラ、コンサートの制作、演出に、オペラ字幕監修の仕事を引き受けてきましたので結局、今までに手がけた字幕は、たまりにたまって放送やビデオ映像につけたものが18タイトル、公演字幕が29タイトルにもなりました。
放送字幕の機械システム
放送における字幕を入れる機械的なシステムも、時代を追って長足の進歩を遂げました。私がNHKに入った1958年頃は、テロップ・カードと言って、葉書大の黒いカードに白の写植を打った文字カードを一々、カタピラ型のホールダーに入れ、マシーンに装填して使っていました。カタピラというのは、戦車やトラクターなどの車輪に巻き付いている鉄の板を繋ぎ合わせたようなもので、アコーディオン・ドアや経文のように折りたたんでマシーンに挿入したのです。
そのテロップ・ホルダーも、やがて繋がったカタピラ式から1枚1枚単独の形になりましたが、枚数が多くなると、5,60枚を積み重ねて詰め替えを行うので、本番の作業中にテロップ・ホルダーの山が崩れ大慌てで順番を間違えないように積みなおすのに冷や汗をかいたことも一度や二度ではありません。
その次の字幕のシステムは例の黒地に白抜きの写植を打ったテロップを一枚一枚、16ミリ・フィルムに1齣1齣ずつ撮影し、それを、歌詞に合わせてスイッチ・ボタンを押し齣送りして、画面にオーヴァー・ラップさせて行くというやり方でした。
16ミリ・フィルムは次にベータのビデオカセットに取って代わられ、それまでは字幕係のディレクターが楽譜を追いながら、指定された箇所でボタンを押す手作業だったのが、前もって素材をコピーしたビデオカセットに特殊信号を記憶させ、現テープとシンクロさせて再生し作成の時は手を拱いて、ただ見ていればいいというようになりました。
さらにコンピューター時代に突入して、ビデオテープの編集もいとも簡単に出来るようになり、デジタル時代になって、CDやレーザーディスクと同じ光るメタリックの円盤フロッピーディスクにデータが記録されるようになり、どこで字幕を出し、どこで消すかを映像素材を見ながら何回も修正を繰り返して作完成品を作ることが、データ入力の変更で簡単に出来るようになりました。
こうして字幕監修もすれば、コンピューターを操って字幕を打ち込むことも出来る私のような人間が重宝されるようになったのです。
公演字幕の機械システム
公演字幕では通常、劇場のプロセニアム・アーチの上部に横長に吊った白いスクリーンにスライドを投影するという方法が採られていますが、近時盛んになってきた演奏会形式の時などは、たくさんの豆電球を埋め込んだパネルを長く列ねた電飾盤を舞台サイドに立てたり、舞台奥に横に寝かせて使ったりする方法が採られています。
スライド字幕を横長に出すか、初期の映画のように右に或いは左右に縦長に出すかでは随分と議論がなされました。映像と違って横長に広い舞台の外側に出さねばならない通常のオペラ公演の字幕の場合は、右側だけでは左側の御客様には大変見ずらいものになりますし、両側に出すとなると、スライド投影のプロジェクターも2台必要になり、単価の高いスライドも倍の枚数が必要になります。本来、字幕というのはお客様サービスにかんがえられたもので字幕を出すからと言って、入場料金をそれだけ高くすることが出来ないものですし、そもそもオペラの公演は大変お金のかかるものですから、字幕にそんなに費用をかけるわけにもゆかなかったのです。
それに、オペラでは叙情的なアリアのように字幕から字幕への移り変わりがゆっくりオーヴァーラップしていったり、ゆっくり消えて行ったりした方がいい場合が多く、それにはスライド・プロジェクターがどうしても必要なのです。ところが、大抵の劇場にはそもそも、そのようなプロジェクターが据え付けられる専用のスペースがなく、あっても大変窮屈なのが実情で、2台置くのもやっとなのに、舞台の左右に字幕を出すための4台などとんでもないというわけです。
電飾盤による公演字幕
バブル時代、世界一流歌劇場の来日公演は驚くほどの繁盛ぶりでしたが、バブルがはじけ、莫大な舞台費を要しないホール・オペラや演奏会形式オペラが台頭してきました。
ところが、従来のスライド投影には、ある程度の暗さが必要で、演奏会形式の明るい照明ではスライドの字がほとんど読めなくなります。それに、スライド投影式の大きな欠点の一つは舞台上方の高い所に字幕が出ることで、舞台近くのお客さんは首が痛くなる程、上を振り仰いで長時間その字幕を見なければなりませんし、歌っている歌手にしても、目の前のお客さん達が、自分の方を見ないで一斉に天井の方を見ているとなったら、大いにやる気を削がれるというものです。そこで生まれたのが、電光掲示板形式の字幕です。
これは最近、ビルの壁面にはめ込んだ大型のがあるのでお分かりいただけると思いますが、周りがどんなに明るくても鮮明に映像も字も見ることが出来、しかも瞬時に画面を切り替えることも、字の色を様々に変えることも可能です。それに、操作はコンピューター制御ですから、字幕の修正も、あっと言う間に出来ます。装置そのものを作るのに大変な費用がかかるので、減価償却の使用料がかなり高額でしたが、最近はこのシステムを持っている業者も増え需要も増えたので、かなり値下がりもし、普及もしたようです。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場では、前の席の背中に小さく字幕が出る液晶パネルが常設されていると聞きましたが、大変な設備費がかかったと思います。
オペラ字幕監修の手順
字幕の依頼を受ける時、普通、同時に映像や音声の資料とヴォーカル・スコアを受け取ります。すると、先ず最初に、その資料を再生してストップウォッチで細かくラップ・タイムを撮り、譜面に書き込みます。歌詞のフレーズの頭と終わりを一つ一つ丹念に拾うためお今季に何回も資料を再生してチェックします。映像に字幕を入れる仕事の場合は、普通、その素材のビデオ・カセット・コピーが渡されるので、映像を見ながらショットの切り替え部分もすべて譜面に書き込みます。それからの根気のいる翻訳と、言葉選びの作業については「私と字幕との付き合い」のところにも書いた通りです。
既成の対訳や字幕がある場合は、参考にそれ等をみることもありますが、前もって一つの訳文に気を取られると、変な先入観に捉われてその先人と同じ間違いを犯す危険があるので、自分なりの訳をつけたが、どうしてもおかしいと感じた時や、どうしても理解出来ない時に限ってなるべく複数の既成訳を参考にすることにしています。たくさんの人の目に触れるものですから、仕上げた字幕を念のため専門家に見てもらうこともしばしばでした。
字幕監修の苦労・自数の問題
オペラ字幕は、その成立の頃から、見る人にそのオペラの理解を助ける補助的手段として出発しました。字幕は翻訳文章と違って瞬時にして消えるもので、読み返しがききませんし、放送を楽しむ人も公演の舞台を楽しむ人も、その字幕を読むと同時に音楽を聴き映像もしくは舞台も見ます。つまり、字幕は他に神経が注がれているのを邪魔せず、瞬時に読み取れ、しかも理解出来ることが最も大切な要件になるのです。
初期のテレビでは字数は横に10字2行で、それが画面の広がりと鮮明化のお陰で12字から14字となり、現在は普通のテレビもレーザーディスクも15字ないし16字2行ですが、ハイビジョンのワイド画面ではもっとたくさんの
字数を入れることが可能です。
公演字幕では、スライド投影の場合は25字2行で電飾盤の場合は14字もしくは16字2行が普通で、映像の場合も公演の場合も3行以上にすると、字の固まりが圧迫感を与える
そのまま、せいか、どうも不評です。
映像でも公演でも字幕は縦にすると、横にするよりずっと使える字数が少なくなります。字数が少なくなればそれだけ枚数は増え、切り替える回数も多くなるわけで、時にはそれが煩わしく、落ち着いて内容が楽しめないという欠点も出てきてしまうのです。
外国語では短く発音される言葉を日本語に訳すと大変長くなってしまう場合が多いのも悩みの種です。つまり、原語をただすべて訳出した文を字幕にして原語の歌に合わせて出すと、読み切れないうちに次々と字幕が変わり、見る人は字幕を読むことに必死で、音楽に耳を傾ける余裕も歌手の演技を見る暇もなくなってしまい、大不評を蒙ること間違いなしと言うわけです。これは翻訳専門の人に字幕を頼んだ場合、よく起こることで、専門家は苦心して訳出し得た細部や文法にこだわり、思い切った意訳や断念をなし難いからだと思います。
長い原文に対し、いかに適切な短縮した訳文の字幕を作るか、その言葉の選択が字幕監修者にとって一番大事な腕の見せ所です。削ってもいい言葉と、どうしても削れない言葉、協調しなければならない言葉などを台本や音楽の中から汲み取り考え出す、このように、劇性を高め、その劇としての情況や進行、音楽の変化に最もふさわしく、即時に理解し得る言葉を選ぶということは一種の演出作業でもあるように思います。
読み易くするための工夫
字幕を読み易くするためには、様々な工夫が必要です。例えば、平仮名や漢字のどちらかばかりが続くとぶんしょうは読み辛くなりますし、特に平仮名が続く場合は空間を開けて読み易くしたり行を替えたりしないと「べんけいがな ぎなたをもって」式になってしまうのです。
監修者によっては、行を替えることに無頓着な人もいますが、私はかなり神経を使い、熟語や助詞、助動詞等の中途で極力切らないようにしています。例えば「金色の指輪とお祈りの本がしまってあるわ」という文章を途中で切って2行にしなければならない時、私は「の」「と」「の」「が」「て」の後以外では切らないことにしています。
それから制限字数一杯の字幕が続かないようにもしています。ことに公演では2行25字それを見ただけでうんざりするようです。
映像字幕では映画やテレビと同様にカメラが歌っている人物を一人だけ抜き出して映すころが多いので、そこに、その人物が歌っている言葉の訳を出せばいいのですが、映画画面のロングショットや公演で、一時に何人もの人がそれぞれ、別々の内容を歌う時などの処理は、外国の劇映画やテレビ・ドラマの字幕にはないオペラ字幕独特のもので、これも監修者の腕の見せ所となります。一人一人の言葉を括弧でくくっても、どれが誰の言葉なのかはっきりわかるようにしなければなりません。公演字幕の時に括弧の頭に小文字で役名を入れ、誰が歌っている台詞かを知らせる人もいますが、字が小さく煩わしい感じがします。私は主語や敬語などの言葉遣いで、一目瞭然、誰がそれを喋っている言葉か分かるようにしています。
そのような工夫をしていると、日本語は実に語彙が豊富で、表現が多彩だと今更ながら、つくづく有り難く思います。例えば英語の「I」にしてからが、「私、わたし、あたし、僕、あたい、俺、おいら、わし、てまえ」等、「YOU」なら「あなた様、あなた、あんた、お前、君、貴様、てめえ」等、「LOVE」なら「愛している、恋している、いとしむ、惚れている、ぞっこんだ、好いている、好きだ」等、数えれば限りがない程です。初めのうちは「あなた」と訳していたのを劇の進行に従い、同じ「YOU」を次第に「お前」とし、「貴様」とすることにより、主人公の怒りを表現することも可能になります。
映像の場合、読み易くするための工夫の一つに、1ショット中に処理するという法則もあります。大事な台詞の字幕を読んでいる最中に背景の画面が切り替わると、新しい画面に目が行き神経がそちらに削がれるからです。
字数で苦労する一つは、外国では会話中、しばしば相手の名前を言うことです。短縮不可能の長い名前をそのまま表記すると、ただでさえ苦しい字数制限の残り少ない枠で、言いたい事をどう表現するか、頭を痛めます。どうしてもの時は名前を省きますが、見る人は他の言葉は分からなくても、原語の中に僅かに聞き取れた役名が字幕に出ないと、すぐにおかしいと感じてしまうものなのです。
また、字幕で気をつけなくてはならない大事なことの一つに、「先走らないこと」というのがあります。つまり、出演者が歌う前に、先の結論を知らせないということです。字幕が替わった時、観衆はちらっと、それに目を走らせ読み取ってから舞台を見ることが多いので、質問と答えが同じ1枚の字幕に出ると、その舞台の応答が切羽詰まったものであればある程、間が抜けてしまいますし、また、大変面白い、笑いを誘う答えの時など、出演者が、その答えを言う前に客席がどっと湧いて出演者が、その台詞を言い難くしてしまうのです。
演奏会形式オペラの時には、馴染みのない作品であれば、情況を説明する字幕も必要です。
歌手はイヴニング、タキシード姿で、始まる前は誰がどの役、と覚えていても、今まで歌っていなかった歌手がいきなり歌いだすと、どういう設定で、どうやって、そこにその歌手が登場してきたのか、などを聴衆に知らせなければなりません。台詞が続いている時など、どこにそのト書きを入れるかで苦心しますし、台詞と間違えられないように、色分けしたしたりします。
上演中のハプニング
映像字幕は何回もミスチェックした上で、完成品を作りますし、公演字幕も万全の準備をして本番に臨むので、ハプニングも面白い失敗談もほとんどありません。
公演の字幕を出す場合は、字幕のチェンジのキューを出す人が演奏を聴きながらスコアを追い、指定された箇所で字幕を出したりする合図を出し、隣に座ったプロジェクターや電飾盤の技師が、それに従ってボタンを操作します。キューを出す人は普通、オペラの練習ピアニストが受け持ちます。私のプロダクションでは時々、指揮者の卵氏にもやらせ、勉強させています。キューを出す人は指揮者を前から映したモニターテレビを見て、その指揮者が歌手に歌い出しのサインを送る瞬間を捉え、字幕を投影する合図を出すのですから、海外一流の指揮者が振る場合など、特に指揮者の卵氏には大変いい勉強になるのです。
ただ、海外からの引っ越し公演の場合は、歌手もスタッフも自国で散々上演してきているので、日本の公演前に中々、完全な形で練習をしてくれません。その上、参考のために送ってくる参考資料が確かなものでないと思わぬハプニングが起きる危険性があります。確か、ワーグナーの≪トリスタンとイゾルデ≫だったと思いますが、途中省略はないと聞いていたのに、本番中、カットがあることが分かり、一瞬楽譜のどこを演奏しているかが分からなくなり、当然、字幕とも合わなくなって真っ青のなったことがあります。幸い、その時のキュー・マンは作曲家の卵の落ち着いた人で、たちまちカットして飛んだ先を見つけ出し字幕を先送りして、すぐに追いついたので大事に至らずに済みました。
≪魔笛≫やオペレッタなど台詞が挿入され、アドリブも飛び出してくるものは、キューを出すのが大変です。長い台詞を出演者が間違えてにしたり、忘れて飛ばしてしまったり、そのたびにキュー・マンは命が縮む思いをさせられます。公演が回数を重ね、日本語になれた外国人歌手が、突如、習いたての日本語を喋って客席をどっと湧かせることもあり、そのような場合には次の回から、不要になった字幕は出さないことにしています。
字幕の功罪
オペラに精通している人、あるいはオペラを見る前に、しっかり予習をしている勤勉な人にとっては、字幕は舞台に神経を集中させるのに邪魔になる無用なものと映るようですが、まだまだ、オペラの普及率の低い日本では、一部の人には迷惑でも、我慢してもらわなければならないのではないでしょうか。
字幕がないと、人はいやでも予め筋書きや対訳を読んできたり、公演中、神経を舞台に集中させなければならず、そうして得た芸術的感動こそ尊い、という考え方も確かに正しい物です。しかし、誰もがそうしてオペラを聴きに来ることを期待するのは理想論に過ぎますし、オペラはそんなに予習しなければ理解出来ないような面倒くさいものなのか、と印象づけることはオペラの普及に逆行し、民衆の娯楽として育ってきた、その本質にも沿わないのではないかと私は考えます。
いくら前もって筋書きや対訳を読んできても、その外国語を母国語同様に理解できる程の語学力を備えている人なら別ですが、一語一語、何を言っているかを理解し、その言葉に応じて歌手がどのように表情を作り、演技しているかを細かく知ることは不可能です。私は字幕によって、それを知り、オペラあのすばらしさを分かって下さる方が、もっともっと増えて欲しいと思っています。
ニュー・オペラ・プロダクション 代表 杉 理 一