生き延びた七十四年 |
【 2018年9月13日記 】
敗戦の日を迎えた時、私は上海日本中学校三年生。制服は軍服と同じカーキ色にゲートル(巻き脚絆)を巻き、制帽は軍帽同様、てっぺんに針金が入った顎紐付き。先生や上級生には挙手の礼。道で追い越す時は、挙手の礼をしつつ、「お先に失礼します!」と言わないと、ぶん殴られた。夏休み返上で軍馬の草刈りをやらされ、三年生以上は全員、黄浦江の岸壁に面した三菱重工業の軍需工場寮に強制的に入れられ、一日中、旋盤で迫撃砲の弾丸削り。夕食後が授業で、疲れ果て布団に入ると、屡々敵機来襲で叩き起こされた。教室で志願兵申込書が配られ、「親に判子を貰って来い」と言われ、当時、それに逆らえる親も子もいなかった。八月十八日に全員、上海海軍陸戦隊に入隊と決まった。当時の中学には軍事教練の授業があり、重い鉄砲を右手に持ち、左手の肘で数十メートルを這って前進する匍匐前進(ほふくぜんしん)訓練や柔道、剣道、銃剣道の授業もあり、入隊したら、即下士官待遇と言われた。だが、もし敗戦の詔勅が一週間遅かったら、十四才の私は攻め寄せるソ連軍と、ろくな武器弾薬もなしに戦い、戦死か、捕虜となり、シベリアで飢え死にしていたに違いない。あの悪夢が今、また現実になりつつある。そう、お国のために!
ニュー・オペラ・プロダクション 代表 杉 理 一