上海中学時代の思い出 |
会報第16号に写真も入れ、4頁にわたって「上海の思い出」を掲載していただいたが、その時、書き漏らしたこともあり、今回が最後の会報ということなので、重複するところもあるが、改めて「思い出の記」を記させていただくことにした。中学での思い出話は書き出したら一冊の本になる程の分量だろうし、他の何人もの友人、先輩達が今迄も会報に書き、また今回も書くことだろうから、他の人が余り書かないだろう、みんなと重複しないだろうと思われることを拾って書いてみることにした。
◆ 我 が 家 の こ と
まず、中学校の学校生活からは、ちょっと離れてしまうかも知れないが、共同租界の西のはずれにあった私の大きな家のことを書いてみることにする。
自分が広壮な家に住んでいたことを書くとなると、嫌味な自慢話風に取られると困るのだが、我が家は特別の金持ちでもなく、ただ、日本の大蔵省の役人だった父が内命を受けて中国全体の税関の総元締めの役所、海関総税務司公処の総務処長として派遣され、おかみ支給の官舎に入ったに過ぎないのである。つまり、当時、そのような立場に置かれた官僚がどのような優遇を受けていたかを事実ありのままにお話しようと思うのだ。
昭和17年のクリスマス・イヴに上海に着いた私の一家は、当時共同租界の西端、すぐ南に高級住宅地のフランス租界を控えた静安寺路とゼッフィールド公園の間に位置する憶定盤路の家に入った。 この憶定盤路はエディンバラ・ロードの中国語読みの当字で、後に江蘇路と改名されたことでも分かる通り、米英に対して開戦する前は英国租界であった地区ではないかと思われた。
とにかく、広大な敷地に建ったでっかい家だった。上海へ行く前、父が長崎税関長、門司税関長をしていた時の官舎も、広い庭があり、いずれも石垣の上に聳え立つお城のような邸宅だったが、上海の官舎は、それとは桁違いに敷地が広く、一万坪近くもあったろうか、一面の芝生は五,六十糎の高低差で二段に別れていて、近くの中国人の小学校の運動会に貸してあげたが、その半分も使いきれなかった。私達は普段は、そのほんの一部を使ってローン・テニスをしたりしていたが、芝生の両端にゴルフ・ホールがあって、行ったり来たりだけだったが、父は時に友人とゴルフを楽しんでいた。建物はイギリス風の総二階建てで、三階は今で言うロフトになっていて、洒落たドウマの窓がついていた。二階には幅広のベランダがあって、その下の一階はサンルームになっていた。各室に大きな暖炉があり、母屋の部屋数は台所、トイレ・バスルームを除いても十数室もあり、ひと間ひと間が十畳から二十畳もあるようなゆったりした造りだった。この家には何人かの上海中学の同窓生が遊びに来てくれたから、その友人達が私のこの話がホラではないことの証人になってくれるだろう。
中国人の使用人が8人、それに父の日本人秘書が一人いたが、中国人は母屋から鉤型に続く別棟のアパートがあって、そこに、中国人の習慣でもあったろうか、おじいさん、おばあさん、配偶者、子どもに孫と、まあ、どういうつながりかも分からないような親類縁者までが、鶏や山羊などと住みつき、一体、全部で何人、何羽、何匹住んでいるか見当もつかない有様だった。それをうるさく言い立てないのが大人(たいじん)たる者のとるべき態度であって、それが中国式というわけだった。 使用人の内訳はボーイが三人、コックが一人、アマ(女中)が一人、庭師が二人、門番が一人。三人のボーイの内、二人が親子、コックとアマは夫婦、庭師の二人は叔父甥の関係だった。
門番は酒やけした赤ら顔の老人で、警官と同じ黒の制服、天板に黒の針金の入った制帽をかぶり、黒いゲートルを巻き、父の送迎の車が門を出入りする度、よたよた門番小屋から走り出てきて門扉を開き気弱な笑みを浮かべ、とろんとした酔眼朦朧の目付きで敬礼していたことを今でも懐かしく思い出す。門から玄関の車寄せまで約6、70メートル。玄関から見て左側は使用人のアパートとそれを目隠しするような灌木茂みがあり、右側はすっくと伸びた十数本のポプラか立ち並んでいた。玄関前には、大きな枇杷の大木の植わっているロータリーがあった。門番小屋の裏は、その門番の住まいになっていたようで、飼い主によく似たよぼよぼの山羊がつながれ、よく「メ~~」と鳴いていた。
2人の庭師は、1人が大きな芝刈り機を押し、1人がそれを綱で引っ張って広い庭の中を一年中、ガラガラと行ったり来たりしていた。芝生の西のはずれには大きな温室があり、その手入れも庭師の仕事だった。南のはずれにあるゴルフホールの更に南側には、二百坪以上の畑があり、父はそれを中国人の使用人に勝手に使わせていたようだ。私も中学で「庭に余裕のある者は食料増産のため、野菜を作れ」と言われ、習った通りに馬鈴薯や胡瓜、トマトなどを作っていたが、使用人達はいつも、出来の悪い私の農作物を見て、よせばいいのにという顔をしていた。
でっかい家に住んでいるから、それに見合う高給を取っていたのだろうと考えられてしまいそうだが、殆どは官費で払われていたようで、子どもの目から見ても、食費等は結構大変だったようだ。暖房は大きなボイラー室があって、薪と石炭で全館スティームを回しておおよそは暖めていたようだが、暖炉の方は燃料費を倹約して、必要最少限の部屋でしか焚かなかったし、コックの作る料理も、それほどバライエティに富んだものではなかった。もっとも、これはコックのレパートリーがそんなになかったのかも知れない。家計の管理を任されていた若い秘書が、いかにも老獪な、とぼけた顔のコックを真っ赤になって怒鳴り付けているのをよく見かけた。コックが米や材料をちょろまかしているのは、動かし難い事実だというのである。 前任者のイギリス人かフランス人の時代から、ここで働いていた使用人は、以前は、どの部屋でも暖炉をじゃんじゃん燃やしていたし、食費ももっと潤沢にコックに渡されていたと言っていた。それでも父は中国人には、いかに対すべきかを心得ていたようで、使用人達から尊敬され、信頼され、愛されていた。
敗戦時、他所では、掌を返したように使用人が主人に仕返しをした話が、五万とあったとは反対に、我々が集結させられた虹口のわび住まいまで、秘かに会いに来て別れを惜しんだ彼等の反応が、それを雄弁に物語っていた。これは余談だが、父が日本での会議に出席の折、随行員を誰にするか、日本人の部下の間で話題になり、母国に帰るメンバーに選ばれることを秘かに期待していた人が少なからずいたのに、父はこれはと見込んでいた部下の中国人を連れて行った。はずされた日本人達からは恨まれたが、随行した中国人は日本の要人に会い、隣国の能吏と紹介されて面目を施し、大いに見聞を広めて喜んだのは勿論のこと、それが励みとなった海関の他の中国人達からも、その分け隔てない父の態度に感謝の言葉が寄せられたと聞いている。
私の家の、道を隔てた向かい側には、かっては富裕な中国人女性が進学する名門女学校の緑濃い広大なキャンパスがあり、蒋介石夫人の宋美齢が卒業した学校としても知られていたが、私達がそこに住む頃には日本軍に接収され、陸軍病院になっていた。よく、私は姉や妹や近所の子ども達と遊びに行ったが、故国に残した身内の子どもを思い出すのか、心優しい衛生兵達が、休憩時間に我々の相手をして遊んでくれたものである。病院長で衛生隊の隊長の堀内中尉は文学や美術を愛好する教養人で、父とは忽ち肝胆合い照らす仲となり、よく我が家へ遊びに来られた。
◆ 国 民 学 校 か ら 中 学 へ
この家から私は静安寺路近くの西部第三国民学校に六年生の第三学期三か月だけ在籍した。担任の間野先生は他の生徒には厳しくしておられたが、短期間だけの新入生の私には大変やさしく指導して下さった。中学への入学には面接試験が重視されていたようで、予行演習で「分からない時は、いつまでもいじいじ考え迷っていないで、はっきり『分かりません!』と答えよ」と教えられ、本番の試験の時は、元気に「分かりません!」を連発した記憶がある。
中学校へは自転車で通学した。静安寺から南京路か北京路を通り、日本軍の衛兵の立つガーデンブリッジを渡って虹口の呉淞路から松井通り、そして中学校への道のりは片道約12キロ。西部に多かった紡績会社の社宅に住む中学生グループが上級生を先頭に走る自転車列の後にくっついての通学だった。南京路などの大きな交差点には頭に白いターバンを巻いたインド人の交通巡査が立っていて、我々中学生の自転車隊を見ると、すぐに警棒を振って、他の車を止め、優先的に我々を通してくれた。敬礼して「サースリカ!(インド語で『こんにちは!』だったと思う)」と言うと、ニコニコ笑って低い声で「サースリカ!」と答えてくれた。
当時、背丈がちびの部類だった私は自転車のペダルが下に降りた時には、普通に座っていたのでは爪先がペダルに届かず、お尻をずらして漕ぐので、後ろから見ると家鴨が腰を振り振り歩いているようだと、よく姉に笑われたものである。夏はひどい暑さ冬は厳しい寒さの所謂、大陸性気候の上海で、殊に冬、寒風をついての通学は辛かった。ハンドルカヴァーは着けてあっても手はガチガチに冷えかじかみ、まるで感覚もなくなり、寒風にさらされ、鼻は赤くなり目からは自然に涙が滲んで来た。
小学校時代から既に軍国少年教育が身にしみていたが、中学の軍隊式の教育は更に徹底したものだった。服装からして、兵隊と同じ国防色と言われたカーキ色の木綿の上下で、上着は冬はネルの裏地つきだったが、下着は一枚だけ、こっそりセーターやもう一枚下着を重ね着していやつが、朝礼で「天つき体操」の「用意!」と言われて、うっかり上着を脱いでばれてしまい、こっぴどく叱られることもあった。帽子は幼年学校と同じような上縁に針金がピーンと入った鍔付きの帽子で、目深くかぶるように決められていて、阿弥陀にかぶることは御法度。足には布製の編み上げ靴で、ズボンの上から巻き脚半(ゲートル)を巻いての登下校で、上級生を追い越す時は必ず「お先に失礼します!」と軍隊式の敬礼をしなければならなかった、勿論、自転車に乗っている時もである。
冒頭にも書いたように、中学での思い出は書き始めたらきりがないし、他の人も書くであろうから、ここには項目的メモ書きだけにとどめる。
配属将校による厳しい軍事教練、重い鉄砲をガラガラ引きずっての長距離匍匐前進、仲間の一人がタコツボ掘り中、土葬された中国人の棺桶に転げ落ちた話、肩いからせた上級生集団によるお説教、ニヤパン先生の号令による朝礼体操、天突き体操、講堂での手榴弾の火薬詰め、柔道、剣道、銃剣道、詩吟の授業、強制された懸垂、夏休み返上の軍馬の草刈り、悪童共の解剖遊びに怯え逃げ回ったこと、そして、個性豊かな先生方のこと。
厳しい先生、やさしい先生、特に1年E組の担任だった穏和な畑山先生には可愛がっていただき、帰国してからも同窓生達とともに何回もお会いした。教員室に行った時、やせっぽちだった私の腕を掴んで膝に当て、折る真似をして「あれー? 意外に丈夫で折れないなー!」と大きな声で冷やかした海老名スピーカー先生、ムチで机を叩きながら「ジス・イズ・ア・ペーン!」と叫んで教えた矢野目先生、黒塗りの黄包車でご通学の沢口ビヤ樽校長先生等々、これまた書き出したらきりがない。
ただ一つ、ここに書き留めておきたいことがある。確か2年生の時の担任だった加藤先生が期末試験直後に自己採点表を提出させ、私が駄目だったと落胆したせいもあり、ひどく低い点をつけて提出したところ、先生は真っ赤になって怒り、「お前には気迫がない!」とひっぱたかれた。この時の口惜しい経験は、後々の私の人生に影響するほどの大きな反発心をかき立てた。 「この私に向かって気迫がない、気力がない、ファイトがないと言ったことが、どんなに間違いだったか、お見せしようじゃないか」という憤りだった。しかし、その反発心が私を駆り立て、この歳になってもなお目指した仕事を張り切って続けさせる原動力になっていることを思えば、今は亡き加藤先生の霊に、あのピンタに対する心からのお礼を申し上げたい気持でいっぱいである。
◆ 勤 労 動 員
中学3年の勤労動員で迫撃砲の弾作りのため三菱重工の工場で寝起きするようになった頃、B29が頻繁に飛来するようになった。しかし、滬西にある我が家は爆撃される危険は先ずなかった。というのは、このあたりは我が家を含めて、日本に接収されているとは言え、連合国側の資産が沢山残っており、勝利の暁には、彼らが戻ってきて早速住むことになるから、破壊する気がないと考えられていたからである。しかし、自宅にいる限りは爆弾が落とされる心配はなく、夜半に空襲警報が鳴っても平気で高鼾で眠っていられるのに、上海中でここだけは爆撃される可能性が最も高い河辺の軍需工場の寮へ出向かねばならなかった。昼間は迫撃砲の弾丸を削る旋盤作業に疲れ果て、夕食後には睡魔と戦う授業があり、ぐったり布団に転がり込めば途端に空襲警報で叩き起こされ、防空壕へ避難しなければならない、そんな日々の繰り返しだった。なんて馬鹿々々しいとは思っても、当時は、それをうっかり口に出すことも許されない雰囲気だった。食料事情は日本ほどひどくなく、食べるものは十分あったのに、肉体と神経の疲れからか、私を含め多くの仲間が痩せ疲れていた。父兄会で、でっぷり太った沢口校長に私の父が「子ども達のやせ細って行くのが、あなたには気にならないのか」と噛みついたのは、その頃のことだ。
私が配属されたのは第一工場だった。当時、まだチビの部類に属した私は大きな旋盤の機械を操作するには、蜜柑箱の上に乗らなければならなかった。残念ながらフルネームを忘れてしまったが、確か林さんという台湾出身のとても優しい先輩が指導して下さった。
歌と言えば軍歌ばかりだった、あの頃、林さんは小さい声で「赤い花なら曼珠沙華、オランダ屋敷に雨が降る」という歌をよく歌っておられ、私もいつしか旋盤を操作しながら、同じ歌を歌ったものだった。私の作業は瓶のような迫撃砲の弾の荒削りをする作業だったが、その兵器が当時、何人もの中国人を殺傷したかと思うと、今思い出しても心が痛む。
同じ工場の中には若い中国人も働いていて、仲好しになったが、溶鉱炉の辺りには日本人の囚人も働いていて、監視の目を盗んで、手でくるむようにして煙草を盗み喫っている姿を同情をもって眺めたものだった。
ある時、友人が「面白いものがあるぞ」と誘ってくれて、岸壁に係留された小さなベニヤで作った簡単なモーター・ボーターを見に行ったことがある。その友人が言うには、これは特攻自爆艇で、舳先に爆弾を積み燃料は片道分だけ積んで敵軍艦目がけて突っ込むのだという。「でもな、敵もそれを防ぐため、浮遊物を落とすようになったので、空しく自爆だけすることも多くなったんだって。」どこまで本当か分からない話だったが、いかにも本当そうでもあり、こんな貧弱な攻撃法で勝てるのかなあ、と暗澹たる思いになったことは確かだった。
◆敗 戦
昭和20年の8月11日だったか12日だったか、日本がポッツダム宣言を受諾する意志を表明したという極秘ニュースが、当時、受信を禁止されていた短波放送で世界の空を駆け巡った日の翌日、私は何も知らずに、その日が登校日だったので、いつものように自転車で家を出ると道々に中国人が溢れ、爆竹をならして喜びはしやぎ、我々の姿を見ると、「バカヤロー! バカヤロー!」とはやしたてた。(思えば「バカヤロー!」という日本語は彼等が常日頃から、散々日本人から言われ続け、最も良く知っている日本語だったのだ)初めは「何を! この野郎!」と怒鳴り返したものの、多勢に無勢、本気で危害を加える風には見えなかったが、中には石を投げる連中もいて、私は一体、何が起こったのだろうと、不審に、不安になりながら学校への道を急いだ。学校に着いたら、深刻な表情の先生方から、「中国人を無用に刺激しないように、指示があるまで自宅で待機せよ」と言い渡された。
同期の友なら皆、知っていることだが、この時、我々はあと数日で上海の海軍陸戦隊へ志願兵として入隊することになっていた。中学3年生(満十四歳)まで戦力として駆り出さなければならない程、日本は既に追い詰められていたのである。志願兵と言っても、殆ど強制的で、あの当時では志願を拒否することなど到底考えられないような雰囲気だった。
8月15日の天皇のラジオ放送はビービーガーガー言って、内容がよく分からなかったが、父は既に日本が降参したことを知っていて、その内容を子どもの我々にも分かるように教えてくれた。
とにかく、日本は負け、戦争は終わった。しかし、海軍陸戦隊に入隊する命令の解除の連絡はない。人々の間に、まことしやかな流言蜚語が乱れ飛んだ。いわく、「天皇陛下は表向き降参されたが、内心は南方で玉砕した兵士達に対する申し訳のためにも、全国民が潔く玉砕することを望んでおられる」「上海に住む日本人も全員、武器弾薬のある限り、戦い続けた上で刺し違えて死ぬべきだ」等々。今から思えば馬鹿々々しく思われるだろうが、当時は大真面目に、日本人の多く住む虹口から離れた孤島のような滬西に住む身には、この噂は一層真実味を帯びて不安をかきたてた。
いよいよ明日は、海軍陸戦隊へ入隊するという前の日、もう二度と生きて会うこともないであろう家族との「最後の晩餐」をしめやかにしている最中、電話のベルが鳴り、「やはり天皇陛下の詔勅に従い、我々も降伏する。従って、明日は出頭するに及ばず」という知らせが入り、ほーっと全身の力が抜けるような感じがしたものである。
かくして、私達は数日後、かの広壮な邸宅と、別れを惜しむ中国人の使用人達とをあとにして、家財の殆どを残して慌ただしく、虹口の或る会社の倉庫の二階へ移転した。
学校は寺子屋指揮の仮教室であちこちに分散して行われたが、帰国までの間に勉強らしい勉強をした記憶がない。隣家が薬屋だったが、店が強制的に閉鎖されたので、そこの主人から薬を預かり、道端に並べて売るアルバイトをした。ノーシンという頭痛薬が有名だったが、預かった頭痛薬はツーシンだった。よその小母さんに「あらっ、ノーシンないの?」と聞かれ、「この方が点が二つ多いだけ効きます。」と答えたら、小母さんが大笑いして買ってくれたことなど懐かしい。
狄思威路に面した我が家の前には広々とした空き地があり、何百メートルもの先に塀がめぐらせてあった。我が家の二階の窓辺は「帽子盗り見物」の特等席だった。当時はまだ中折れ帽やパナマ帽をかぶる人が多く、そんな帽子をかぶった日本人が黄包車に乗ってやってくると、必ずと言っていいほど、中国人の若者小走りにくっついて来て、窓の下の原っぱにさしかかるや、客の帽子をひったくって、全速力で遙か彼方の塀を目がけて走り去るのだ。あっと言う間の出来事で、取られた客が大慌てで車夫に車を止めさせ、かじを下ろさせ車を下りる頃には、泥棒は遙か彼方で、とても追いつける距離ではないという訳だ。噂によると、塀の向こうには泥棒市場の買い取り屋が待ち構えていて、すぐに買い取ってしまうので、塀の向こうについた被害者は自分の帽子を買い取る羽目になるという仕掛けのようだった。巡査に訴えても、敗戦国民の我々の訴えを聞いて貰える可能性はなかった。
◆ 帰 国
中国大陸も北へ行くほど引揚者はひどい目に会い、南ほど待遇が良かったと言われている。蒋介石が「仇に対し、恩を以て報いよ」と言った方針のお陰だった。蒋介石にとっては、来るべき中国共産党との戦いで優位に立つためには、ここで日本に恩を与えておいた方がいいと判断したからだろうが、理由はどうであれ、我々にとっては大変ありがたいことだった。中国人を馬鹿にし、散々ひどい目にあわせて来た国の民としては、ソ連がやったよりひどく全員抑留され、奴隷にされたって文句の言えた状況ではなかったからだ。
現実に、あの大陸でいかに我々が、特に軍人が中国人に対し征服者として威張り、見下し、不当な扱いをしてきたか、彼等がどれだけ侵略された国の民として屈辱に耐え、忍従を強いられていたかを目の当たりにしてきた私には、今になって、「日本は侵略者ではなかった」などとしゃあしゃあと言う愚昧な人間の存在を私は許すことが出来ない。もし、それを言うなら、自身の足で当時の状況を知る何百人もの日本人に会い、又、中国に渡って、当時を知る現地の人何千人から、「自分に都合のいい情報だけをつまみ食いせず」徹底的に客観的に調べ上げた上でものを言って欲しいと思う。自責を自虐と言い換え、余りにも責任感の欠如した態度は卑劣であり、自国民ながら、情けなく恥ずかしい。
話が脱線してしまったが、帰国に際し、各家庭には布団袋一個と一人三十キロの荷物の携行が許された。日本への帰国は何隻かの輸送船で行われたが、上海以外の中国各地からの引揚者もいたのだから、その乗船の順番待ちが大変だった。帰国船に乗れるまでの生活も、日本人は殆ど仕事が出来なくなったのだから、どうやって生きていくかが問題だった。私の家に順番が回ってきたのは翌年の四月上旬のことだった。
永豊丸という引き揚げ船が係留してある岸壁の近くの広場で、重慶からきた税関(海関)官吏の前に乗船者全員が荷物をずら~っと並べ広げ、持ち帰ってはいけないものの検査を受けた。辞書類、地図、計器、定規類まで持ち帰り禁止だった。敗戦で全財産と社会的地位を失った父は、自暴自棄に陥っていたのか、帰国の荷物の選別も殆どせず、家を出る寸前、身の回りのものをザーっと行李に開けて持ってきたため、官吏の前で、潰れたシルクハットやら、辞書やら、定規やら、果ては金鵄勲章までが現れた。もともと、この検査には、私達家族を他の人以上に緊張させる要素が他にあった。つまり、検査するのが、それまで敵方だった税関(海関)の官吏だったからだ。我々より何隻か前の引き揚げ船の検査で、戦時中、中国人に対し差別して辛く当たった海関の上級官吏だった日本人が、皆の前で殴られ「おまえが日本に帰るのは一番最後だ」と言われたという話が伝わってきていたからだった。
固くなっていた私の前で、官吏が口を開こうとした時、通訳の中国人が父の顔を見て、何事か、其の官吏に話すと、厳しかった官吏の顔が俄に、微笑み、父に向かって言葉をかけ固く握手を交わした、そして、次ぎの人の方へ移って行った。「どうしたのですか?」と尋ねる私に父は「戦争中、中国人の官吏を日本人と分け隔てなく接してくれて、有難うって言われたのさ。」と
ぎゅうぎゅうに積み込まされた引き揚げ船に乗っても、日本に着くまでは、不安だった。戦争中に日本海に敷設された機雷が至る所にぷかぷか浮いていて、いつ接触して船ごと吹っ飛ぶかも知れないと脅かされていたから。
永豊丸は鹿児島湾に着いた。「日本が見えたぞーっ!」という声に船倉にぎゅう詰めにされていた人々は甲板に駈け上がった。黄色く濁った揚子江の水とは違って、紺碧の海、美しく晴れ上がった青い空、そして緑の山々、白い噴煙を上げる桜島の勇壮で美しい姿を見て「ああ、やっと生きて日本に帰り着けた」とほっとすると同時に、私の目に熱い涙が次ぎから次ぎとこみ上げてきた。照れくさい姿を誰かに見られはしなかったかと思って慌てて周りを見回すと、見渡す限りの人々の顔も止めどなく流れる涙で濡れていた。
五期生 杉 理 一
有限会社ニュー・オペラ・プロダクション 代表取締役